LaT! : Live as Think

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悩めるサラリーマンが悩んだ挙句に転職するまで

「誰がやっても同じ」という価値だけじゃつまらん!

「誰がやっても同じになる」という価値の提供は、「そもそも人間は根本的に全員違う」という大前提がもたらした価値の1つだ。人間は一人ひとり全く違う。おそらく、全く同じ人間はクローンでない限り存在しない。クローンであったとしても、育つ環境さえ違えば、その人間はもはや同一人物とは言えないだろう。この当たり前であるが、非常に大事な前提があるために、「誰がやっても同じになる」技術や仕組みは生み出されたと言える。

 

特にビジネスにおいて、この価値はたくさん提供されている。例えば、

 

「誰が作っても同じ味になる牛丼」
「誰が運転しても事故をしない車」
「誰が計測しても同じ値になる機械」

 

このようにそれを1つの価値として、提供するビジネスはとても多い。
人間はなぜこれを価値として受け入れるのか?作る人によって違う味になる牛丼は、価値がないのか。ちょっと考えたくなる話題だ。

 


先日バンコクへ行ったのだが、その時は本当にいろいろなモノを食べた。美味しかった。そこでしか味わえない料理だったと思う。滞在中のある日、バンコク市街でふとスタバによった。その日は暑くて冷たい飲み物が飲みたかった。そこで飲んだカフェモカは日本のそれと同じだった(味覚オンチなのかもしれんが)実は正確に言うと「ホイップクリーム無料です、ギャン盛りしますか(・∀・)」と聞かれたが、それはパスした(「冷やす」と「甘くする」はタイ式のおもてなしらしい)

 

とても安心した。そこで気づいた、スタバはどこでも同じなのだ。僕はスタバに「日本と同じもの=価値」を提供してくれることを望んでいた。自分が望むものを場所や時を問わずに利用できるのは価値なんだと認識した。

 

なるほど、そういうことか。しかしどうしてだろう。

 

全然面白くない。

 

逆に誰がやっても全く同じものができない方が面白くないか。ふとそう思った。もしかして、僕は今さら「みんな違ってみんな良い」的な当たり前の価値観を、受け入れるようになったのか。

 

誰がやっても全く同じものができないのに、出来上がったものの品質はどれも基準以上になる。もっと言えば、良いものを模倣しようとしても無理!みたいな。そんなサービスってないかな。流行らないかな。

いや、あるのか。ユニクロのUTとかはそうなのか。誰が胸部のプリントをデザインしても、Tシャツとしてのクオリティは変わらない、みたいな。うーん、でも僕のイメージとちょっと違うなあ。 

 

違いを楽しめるような人になりたいな、ちゃんちゃん。